たいした話ではありませんが、わかりやすい話かといえばそうでもないので、一応このカテゴリにしてみました。
というわけで畳みます。おりおり。
そして本日のテーマは、
「幻想は人間の本質に根ざしているのよ。迷子には迷子になる人の理由があるの」 (萩尾望都「残酷な神が支配する」より)
――そのような話でございます。(無茶すんなよ…)
死に幻想を抱く少女、マージョリーのこの言葉をそのまま借りてしまうような形になってしまいますが、人間というのは、自己表出を経て、自己表現というものを知ったその瞬間から、“幻想”というものを持って生きてきているのではないかと思います。勿論それは小説や物語のそれだけではありません。
幻想は様々な形を通って“概念”になってゆくものであり、そのような意味で“概念”は、今自分が存在する“社会のなりたち”に置き換えることができるかも知れません。
幻想。もっと拡大して捉えるなら、それは私達の持っている“概念”そのもののことも、そう呼ぶことができます。そして私達はその“概念”があるからこそ、今日を生きています。
共同幻想の話になりますが、社会や言語という枠は、私達が作った“概念”と“認識”で、それらが正しいかどうかは、誰も裏付けることができません。でもそれを信じていないと、私達は社会で迷子になってしまいます。どうやって生きたらいいのか、わからなくなります。
吉本隆明は、「十三才のための~」で、それまで信じていた自らの“概念”が全てひっくり返ったその体験についてを語っていましたが、つまりは、そういうことなのです。私達が正しいと思っている“概念”には、常に“それが誤りである”という可能性が潜んでいるのです。これはとても怖いことです。例えるなら、ある日突然家族に、「お前は本当はうちの子じゃなくて、両親も別にいるんだ!」といわれるようなもの…という感じじゃないかなと。(ちょっと違うかな…)
自分が信じていた常識が覆される。自分が自分であるという論拠が倒れる。その瞬間、私達はそれまで見えていたと思っていた“概念”が、不確かなものであるということに気付きます。
私達が五感を使って認識しているもの、捉えているものは、必ずしも私達が信じているものが真実というわけではなく、それゆえに“概念”は――時代に翻弄されつつも、時代を支える――“幻想”であるともいえるといえます。
「真実には、私達はなにも知らない。それというのも、真理は深淵のうちにあるからだ」(デモクリトス)
この古代ギリシア哲学者の言葉を頭に置きつつ、さらにもう一人、とある画家さんの言葉を引用します。
「生まれた時から散々に染め込まれた思想や習慣を洗い落とせば落す程真実は深くなる
真贋の遂及とは何もかもを洗い落して生まれる前の裸になる事、その事である」(高島野十郎)
この二つの言葉を照らし合わせて見えたものこそが“幻想”の正体なのではないかと、私は考えます。
私達は誰もが、自分達の作り出したそのような幻想と共に生きており、決して全て、真実・真理という盤上で生活しているわけではなく、下手な喩えをするなら、私達は概念というアスファルトで足元を保っていて、その下にある土(コア)の性質に気付いていない。まあ、そのコアがなんであるかと聞かれたら、難しい問題で、私も全然答えられないのですが。(アカンやろ)
けどそういう、私達が作ってきた概念という幻想は、人間が人間らしく生きるためには必要なもので、文化というものを築くのにも必要で、時には真実よりその人にとって大事なことであったり、その人にとっての真実になったりもします。そのような幻想を持ち続けていたからこそ、今日私達は自己表出、自己発見を経て、物語ることの自己表現に行き着いているのだと思います。だから私は、そのような意味において幻想というものは、大事なものだと考えます。必要であるか、ないかでいえば、それはとても必要なものです。幻想を下らないといっている人でさえ、幻想はあります。それは私達の足元にある――しっかりとした土台はできていないかもしれない、あるいはある日180度ひっくり返り、変わってしまうかもしれない――“社会”というものなのです。人間はそれがないと生きてゆけないのですから、“幻想”はなくてはならないもので、かけがえのないものなのです。
なぜなら幻想と共に生きることが、“人間らしく生きる”ことなのですから。
これもある意味、「夢がなくっちゃ喰っていけない」という奴かもしれませんね。(笑)
幻想は下らないものか、と問われれば、私はそれは強く「NO」といいます。それは私自身が、人間らしく、人間として生きて行きたいと思っているからです。(ただそれに寄りかかりすぎていると、それが倒れた時、立ち上がれなくなることがあったりするのが、幻想の中毒性の恐ろしさなわけなのですが…)
人間をやめる、というなら、それは一つしか方法はなく、すなわち“自意識”と“自我”を放棄し、“幻想”することをやめることです。“死”は人間をやめることにはなりません。なぜなら“死”もまた、それを望む人間にとっての“幻想”に過ぎず、そこには“自意識”も“自我も”存在します。やめたいと思うことですら、それは自意識であり、幻想なのです。そして完璧にそれを捨てることは、とてもとても難しいことなのです。
詩人・山田かまちもいっています。
すなわち、世の中で一番難しいことは――「なにも考えないことである」と。
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・道民なので甲殻類とじゃがいもが好き。
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・同人歴は気付けば十年戦士。むしろ干支一回り。