“表現”について真面目に考えたり語ったりしてみてるブログ。真面目すぎて面白みに欠けます。
回転は月一目標と、間違いなく遅め。やる気があるんだかないんだかわからなくなる、ブログタイトルと投稿内容のアンバランスさがウリです。
2010/12/31 [18:23] (Fri)
年の瀬です。2010年の大晦日です。皆様いかがお過ごしでしょうか、こんばんわ麻末です。
今年は下半期になってからブログの動きが特にグダグダになってしまい、前回記事の日付を見るたびにギャース! と叫ばずにはいられませんでした…。あ、明日からの2011年は、もうちょっとマシな動きができるといいなと思い………いえ、心がけます、心がけます、はい…。
そんな感じで、今年最後の記事(テキスト)は、11月末に書いた、某新聞社のアルバイト募集の応募の際に書いたメディア論です。応募締め切りギリギリになって、急に内容と、自分のメディアに対するスタンスが見えてきて、とにかく分に直すんだー! と勢いに乗って書いたものです。内容は、自分では結構いい出来なんじゃないかなと思うのですが、後日、添削を頼んだ編集者の父に、
「これメディア論っていうか表現論だよ」
と突っ込まれました。
―――Σ (° Д °)∵
(その 発想が なかった!)
それが原因かはわかりませんが、アルバイトの選考は第一で落ちました。うん…いい経験、いい経験…。(笑)
というわけで、カテゴリも「表現・表出」の方にしておきました。
以下、続きより今年最後の表現論テキストです。
※あくまで私の中でのメディアへのものの見方ですので、不快になってしまったらごめんなさい…。
-----ここから-----
報道の意義とは、読み手(新聞を読む読者、あるいはニュースなどを観る視聴者)が、その情報を見聞きして、それをどのように自分の意見を構成し、考えるかということであると私は考えています。それゆえに、報道が読み手に提供する情報というのは、限りなく客観的で冷静な事実でなければならない。そのような意味において、会社という集団(新聞、ニュースなど)によって編集された情報は、読み手にとって非常にわかりやすい形となっているべきと思っています。
しかし集団によってこうして編集された情報とは、反面、これらを整理・濾過することによって事実の一部を取捨選択、操作・制限される場面が出てくる。その時点で、情報は“百%の事実”ではなくなってしまう。これは新聞やニュースをソースとした場合どうしてもついてくる問題で、情報の集約をしてしまうことで読み手が意見を考える前に事実を完結・終了させてしまう可能性がある。これが新聞と、ニュースという報道媒体の弱味なのではないかと考えます。
インターネットの場合はどうでしょう。今日、ネットによる情報開示の広さは、プロによって編集されたそれらの比ではない。これによってパソコンの画面に向かう人々は、編集される前の事件の映像、詳細を知ることができる。これがインターネットの強味である。
だが報道ソースとしてのインターネットが、最初に述べた報道の意義…客観性と冷静さを持ち合わせているのかといえば、それは違う。むしろその反対で、主観と主観のぶつかり合いであり、とても冷静なものとはいえない。これは、我々がそれを仕事とするプロとは違い、削られていない情報を見聞きしてそれを再構成・整理するスキルを持っていないからです。
ではこのような情報の海の中で、我々はどうやって情報と上手く付き合い、整理するスキルを身につければいいのか。
それは集団によって編集された情報と、インターネットでの情報を重ね合わせて行くことであり、その能力をつける必要性を自身で感じなければならない。
社会が一つの事件をどのように集約・整理しているのかを確認した上で、濾過する前の情報をインターネットで得て、再びそれを自分で整理する。そこから出たものが、現代だからこそできる情報との付き合い方ではないでしょうか。
-----ここまで-----
…こんな内容でした。
使いまわしになってしまいましたが、内容は自分の考えがわりと上手くまとめられたかなと、気に入っていたのでアップしてみました。
大晦日になってもこんな風にグダグダな当ブログでしたが――2011年もお付き合いいただけましたら幸いです。
それでは皆様、よいお年を!
年の瀬です。2010年の大晦日です。皆様いかがお過ごしでしょうか、こんばんわ麻末です。
今年は下半期になってからブログの動きが特にグダグダになってしまい、前回記事の日付を見るたびにギャース! と叫ばずにはいられませんでした…。あ、明日からの2011年は、もうちょっとマシな動きができるといいなと思い………いえ、心がけます、心がけます、はい…。
そんな感じで、今年最後の記事(テキスト)は、11月末に書いた、某新聞社のアルバイト募集の応募の際に書いたメディア論です。応募締め切りギリギリになって、急に内容と、自分のメディアに対するスタンスが見えてきて、とにかく分に直すんだー! と勢いに乗って書いたものです。内容は、自分では結構いい出来なんじゃないかなと思うのですが、後日、添削を頼んだ編集者の父に、
「これメディア論っていうか表現論だよ」
と突っ込まれました。
―――Σ (° Д °)∵
(その 発想が なかった!)
それが原因かはわかりませんが、アルバイトの選考は第一で落ちました。うん…いい経験、いい経験…。(笑)
というわけで、カテゴリも「表現・表出」の方にしておきました。
以下、続きより今年最後の表現論テキストです。
※あくまで私の中でのメディアへのものの見方ですので、不快になってしまったらごめんなさい…。
-----ここから-----
報道の意義とは、読み手(新聞を読む読者、あるいはニュースなどを観る視聴者)が、その情報を見聞きして、それをどのように自分の意見を構成し、考えるかということであると私は考えています。それゆえに、報道が読み手に提供する情報というのは、限りなく客観的で冷静な事実でなければならない。そのような意味において、会社という集団(新聞、ニュースなど)によって編集された情報は、読み手にとって非常にわかりやすい形となっているべきと思っています。
しかし集団によってこうして編集された情報とは、反面、これらを整理・濾過することによって事実の一部を取捨選択、操作・制限される場面が出てくる。その時点で、情報は“百%の事実”ではなくなってしまう。これは新聞やニュースをソースとした場合どうしてもついてくる問題で、情報の集約をしてしまうことで読み手が意見を考える前に事実を完結・終了させてしまう可能性がある。これが新聞と、ニュースという報道媒体の弱味なのではないかと考えます。
インターネットの場合はどうでしょう。今日、ネットによる情報開示の広さは、プロによって編集されたそれらの比ではない。これによってパソコンの画面に向かう人々は、編集される前の事件の映像、詳細を知ることができる。これがインターネットの強味である。
だが報道ソースとしてのインターネットが、最初に述べた報道の意義…客観性と冷静さを持ち合わせているのかといえば、それは違う。むしろその反対で、主観と主観のぶつかり合いであり、とても冷静なものとはいえない。これは、我々がそれを仕事とするプロとは違い、削られていない情報を見聞きしてそれを再構成・整理するスキルを持っていないからです。
ではこのような情報の海の中で、我々はどうやって情報と上手く付き合い、整理するスキルを身につければいいのか。
それは集団によって編集された情報と、インターネットでの情報を重ね合わせて行くことであり、その能力をつける必要性を自身で感じなければならない。
社会が一つの事件をどのように集約・整理しているのかを確認した上で、濾過する前の情報をインターネットで得て、再びそれを自分で整理する。そこから出たものが、現代だからこそできる情報との付き合い方ではないでしょうか。
-----ここまで-----
…こんな内容でした。
使いまわしになってしまいましたが、内容は自分の考えがわりと上手くまとめられたかなと、気に入っていたのでアップしてみました。
大晦日になってもこんな風にグダグダな当ブログでしたが――2011年もお付き合いいただけましたら幸いです。
それでは皆様、よいお年を!
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プロフィール
HN:
麻末
性別:
女性
職業:
目指す光の先に。
趣味:
とりあえずなにか考えること?(妄想含)
自己紹介:
・教養がない割に深読み家。
・道民なので甲殻類とじゃがいもが好き。
・道民なのに烏賊蛸貝が苦手。
・別サイトでは女性向サイト運営。
・同人歴は気付けば十年戦士。むしろ干支一回り。
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