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“表現”について真面目に考えたり語ったりしてみてるブログ。真面目すぎて面白みに欠けます。 回転は月一目標と、間違いなく遅め。やる気があるんだかないんだかわからなくなる、ブログタイトルと投稿内容のアンバランスさがウリです。
  2024/05/19 [10:23] (Sun)
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  2010/05/31 [02:10] (Mon)

 先々月の同タイトル記事の後編になります。うっかり四月にアップできなかった体たらくでした…。もうちょっと頭動かすように頑張ります…。
 続きよりどうぞ。(そしてやっぱりまんが・アニメの引用はありません)前編より長いので、目がちかちかしないよう、部屋を明るくして、離れて読んでね!(ごめんなさい…)


 【二】龍の身体が現すもの
 中国、漢の文人、王符は「龍は九似にあり」と九似三停で唱えており、これは龍が九つの動物に似た部位を持っているという意味である。その姿は「頭は駱駝、目は鬼あるいは兎(赤、ということだろう)、角は鹿、首は蛇、腹は蜃(これは鮫という動物を指す)、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」という風に描写をされている。細かな違いは勿論あるだろうが、絵画などから見る龍という生き物のイメージは、世界的に見てもあまりここから外れることはない。さらに龍によってはこれに翼をもつという特徴も加えられたりもする。また翼はなくとも、空を飛ぶという能力が備わっている個体も少なくなくない。
 いうまでもないが、これらの要素のほとんどは、実際の蛇には見られないものばかりである。
 また世界の龍の多くのイメージの中には、“宝をもつ”という興味深い共通点がある。無論、これも実在の蛇にはあり得ないものである。
 では、龍のもつ身体やその他が表わすもの、人にとってその象徴にどんな意味があったのか。ここでは蛇に付与された体の一部の意味を考えて行く。

・角の表わすもの
 角というのは、古来霊力を秘めたもの、力の源と、神話的に解釈されている。実際、動物社会においても、角をもつ生き物にとって大きな角というのは力の象徴でもある。
 その力を蛇に加え、信仰と、蛇本来の畏怖が融和したことにより、角は龍の霊的な力を示す身体的特徴となった。恐らく、角が大きければ大きいほど、多ければ多いほどその力が強いと信じられていたのであろう。
 角を有する龍には、中国の一角をもち糾龍(蛇身の龍)の姿をした“ウ”、北欧神話のヨルムンガンドなどがいる。またヨハネの黙示録に登場する赤き龍などは、七つの頭に十の角をもつという描写がされている。
 日本にも、夜刀の神という土着の神がいるが、この蛇もまた角を持っており、龍と呼ぶことが出来るだろう。
 日本において鹿は神の使いと古くから伝えられていることから、中国から伝搬したであろう“鹿の角”をもつ蛇というのは、世界を統括するものとして、間違いなく霊的な存在として扱われていただろう。

・翼(空を飛ぶこと)の表わすもの
 九似には入っていないが、これも世界各国で共通する龍の能力である。その翼は蝙蝠、あるいは鳥にも似ているとも描写されている。が、翼をもつ龍というのは様々な国の神話で見られるものの、実は空を飛ぶという姿を描かれた龍は――西洋の神話では特に――少ない。しかし翼、ないし空を飛ぶ能力というのは、龍という生き物を信仰するには欠かせない部位であると私は考える。
 翼を必要とする蛇神の代表、ここではマヤ・アステカ文明で崇拝されたケツァルコアトルを例に挙げる。
 その名をアステカの言葉で“羽毛の生えた蛇”を意味し、人々に多くの知恵と文明を与えた、風と金星の神である。※5また人類を作った創造神の一人ともいわれている。これはまさに、今まで述べてきた“蛇の形をして人々を統括”する龍の姿であり、蛇信仰のそのものといえる。(ケツァルコアトルは人身御供の儀式を嫌ったことから、善なる神と人々からの人気も高い神だったが、後に現れる主神テスカポリトカ信仰によって追放されることとなり、その蛇信仰は消えることはなかったものの、他国と同じように影をひそめていった)
 マヤ・アステカの文明といえば、まず取り上げなければならないのは、その発達した天文学である。ケツァルコアトルの象徴するものの一つに金星というものがあるように、マヤ・アステカの文明にとって天文(空)というのは、切っても切れない関係にある。
 天文、空とはつまり“天候”(自然)を表わす。そして天候とは、雨や嵐、太陽などの“自然”を意味する。金星と風の神であるケツァルコアトルの名に表わされる翼の描写は“羽毛”、空を飛ぶための鳥の羽である。人が空を見て、飛び回る鳥に憧れを抱くのは、これもまた太古からだった。
 自然、天候を司る神が鳥と同じように空を舞い、天候の支配者になるためには、翼が必要だったのである。ケツァルコアトルは風の神であるのだから、空を支配するというその条件は必須だったであろう。
 天候を操る、というこの能力は、他国の龍からも見ることが出来る。中国であれば、呼吸をすれば強風や雪になる燭龍、洪水を起こす共工。西洋でも龍の多くは、自然による災害を引き起こす存在として描かれている。これら全ては空を飛ぶことに含まれる霊力であることを考えた時、すなわち空を飛ぶ力、翼とは、龍が操る自然の象徴なのであると考えることが可能であろう。
(しかしこの役割もまた、蛇信仰が衰えて行くに従い主神に奪われて行くことになる)

・蛇の守る宝の表わすもの
 体の一部ではないが、これは龍退治の物語には必ずといっていいほど出てくる要素である。特に龍退治の話が多い西洋の神話を読んで行くと、それがはっきりわかる。※6例えばギリシア神話の太陽神アポロンによるピュトン退治、イギリス英雄叙事詩・べーウルフのドラゴン。同様に、日本神話に登場するヤマタノオロチも、その身体性と物語性をもっている。
 蛇本来に、守るべき宝というのは勿論存在しない。しかし龍という生き物は、西洋ならば毒矢(退治した蛇の毒を使用したもの)、日本であれば尾に剣を隠していたりする。中国では龍退治のあまり話は見かけないが、それでも※7その手には明珠というものをもっているという記述がある。また宝と一言でいっても、財宝や武器だけではない。ここでは西洋の古典、それから日本の書物の中で、龍が守っていた印象的な宝をいくつか並べながら、その内容と意味を考える。

 ファブニルとシグルド
 ファブニルはアイスランドの「ヴォルスンガ・サガ」に登場する、黄金を守る龍(ドラゴン)である。(この物語が出来たのは十三世紀と――古代の神話と比べると――まだ若い方であるが、※8同じ頃に生まれた北欧神話の神々と深い繋がりがあり、神話と物語は並行した世界として描かれている)ファブニルは元々人間であったが、莫大な黄金を守るため自ら凶悪な龍となった。その姿は大蛇、あるいは巨大なトカゲと描写されている。黄金に近づくものを次々に殺して行ったファブニルだが、最後にはヴォルスング家の長男シグルドに破れ、その黄金を明け渡すことになる。これによって、シグルドは(その未来はけして明るいものとはいえないが)富と栄光を手に入れる。
 これが、財宝を得るパターン。

 ヒュドラとヘラクレス
 古代ギリシア神話で、テュポンとエキドナの間に生まれた水蛇がヒュドラである。ヒュドラの血の毒は数多の英雄達を苦しめ死に至らしめたが、ヒュドラを倒したヘラクレスはその毒を矢尻に浸けることによって、強力な毒矢(武器)を手にする。この毒矢は、その後のヘラクレスの戦いに大いに役立ち、その後も偉業を重ねて行く。
 これは武器を得るパターンである。

 ペルセウスのアンドロメダ救出
 これも古代ギリシアから語り継がれる神話、伝説である。
 自らを海の精より美しいと云った王妃が、海の神ポセイドンの怒りを買い、娘のアンドロメダを巨大な海蛇に捧げなければならなくなった。その大海蛇を倒し、アンドロメダを救い娶ったのが、英雄ペルセウスである。
 これは男の英雄が、女を手にするパターンである。

 大きく分けて、龍の宝というのは※9このような感じになっている。
 しかしこの龍の宝が、ファブニルとシグルドの物語のように、実際の富(金銀財宝)であるパターンというのは、実は少ない。龍退治で主に見られるのは残りの二つ、ヒュドラとヘラクレス、ペルセウスとアンドロメダ型である。日本で有名なスサノオミコトのヤマタノオロチ退治も、この二つに該当する。これらは古代と呼ばれる時代が終わり、蛇への信仰が弱まり始めた時から見られるようになった物語性である。
 蛇信仰の衰退の背景には、新たなる神々の台頭、宗教の発生というのがある。人々は自らで土地を拓き、文明・文化を作ることに知り、またそれまで恐れていた蛇や猛獣を倒し、自らを守る術を憶え始めた。これにより、蛇は原始の時代よりも、“人の手を離れた”存在になってしまったのである。人々が敬うのは身体に直接語りかけることによって自然の力で自分達を脅かす蛇ではなく、文明・文化の恵み(知)を与える全能の神へと変化していった。それは例えばギリシア神話だけでなく、エホヴァを主としたユダヤ・キリスト教の出現などもそれまでの信仰に強い影響を与えた。さらに時代は進化して人の自意識が世界を支配する時代になって行く。しかしそのような時代においても、心の拠り所となる“信ずるもの”を人は必要とし、“神”とはなにかと問われるようになる。
 神が絶対の存在であるためには、それまでの蛇信仰を追放しないことには始まらない。古き神を追いやらなければ、神はその座に就くことができないのである。
 つまり、英雄が龍(古き神)を倒すというのが、権力の確立、それを倒して手に入れる宝が権力の象徴となる。
 富は国を、武器は文明の、女は子孫を産み栄えるための、どれも英雄が名声と未来を得るために必要なものなのだ。人に与える宝をもっていない龍もまた、英雄になにかしらの権力を付与するものをもっているのである。(中国の龍も、明珠という宝をもっているが、現地でこれを奪おうとする物語は、西洋と比べるとずっと少ない。日本の竹取物語では大納言大伴御行が龍の珠を取ってくることを求められるが、これは失敗に終わっている。つまり女=権力を手にすることが出来なかったということである)
 上の三つのパターンとは少し異なるが、同じ龍退治の物語で※10「カドモスの龍」という神話がある。
 勇者カドモスは龍によって引き連れていた部下を失うが、龍を倒しその牙を土に蒔くと、そこから屈強な戦士達が生まれた。カドモスはこの龍を倒した地で戦士達と共に都市国家テーバイを築き、後には妻も娶った。つまり龍を倒したことにより、カドモスは権力というものを全て手に入れたのである。このエピソードは、龍退治=権力(と、子孫繁栄からくる“不死”)という象徴をよく表わしている。すなわち、龍を倒すことによって龍(古き神)のいた土地を拓き、戦士(国民、労働力)という宝を得ることにより、カドモスはテーバイという国の王(権力の頂点)になるのである。

・手の表わすもの
 蛇の身体に本来ないものといえばこれである。(中国の故事である「蛇足」もそれを物語っている)蛇はトカゲ類が分化して四肢が退化した生き物と考えられているが、その見た目から多くの人々を恐れさせたのは、今も変わっていないだろう。(蛇である龍が時折、トカゲのような容姿で描写されるのは、このせいもあるだろう)
 ではなぜ、人々は蛇にわざわざ手足を加えたのか。実はこれは、蛇を神として信仰するのに、――先述した翼と同じように――なくてはならないものなのである。
 かつて蛇信仰において蛇という神は大地母神、すなわち天地(あるいは人類)を造った女神、創造神として描かれていた。中国神話の女堝、メソポタミアのティアマト、マヤのイツァムナーらがそれである。(一節ではケツァルコアトルも、創造神の一人といわれている)かつて蛇信仰において、蛇が生命の象徴であったことから、そのように結びつけられたのだろう。ここでは人類を作ったとされる半人半蛇(上半身が人間、下半身が蛇)の神である、※11女堝から“手”の意味を読む。
 天地が出来上った時、世界にはまだ人間はおらず、そこには天神である女堝だけがいた。女堝は寂しく思い、川辺の黄土で丁寧に人形の人を造り、それが人間となった。女堝はその後も次々とそのように人間を造っていったが、丁寧にそれを造るのは大変な重労働であり、やがて疲れてしまった。そこで女堝は泥水を含んだ縄を使い、縄から滴った泥水の雫が人に変わった。(これにより丁寧に造られた人間と、簡単に造られた人間には貧富の差ができたとされる)
 このように女堝は土をこねることから、人類を生んだ。つまり土をこねる…“なにかを造る”のには手が必要不可欠なのだ。
 これは女堝に限った話ではなく、人を統括“する”神には、統括するため、なにかを“行う”ため、文明を築く手がいるのである。その手なければ、なにかを創造することも、なにかを“する(行う)”こともできない。(蛇の体が蛇身、あるいは下半身が蛇なのは、古代人が蛇の交尾、生殖の姿を見て加えられたものだろう。絡み合う蛇と蛇の姿が、先述したウロボロスから“生命”=創造性を連想させたと考える)
 西洋の英雄達でさえ手がなければ、古き蛇の神を倒すことも国を興すことも不可能なのである。

 この“手”に加え、足のある龍についてはもう少し語ることがある。
 次の段落では、手足のある龍、いわゆるトカゲ型の龍も含め、それについて論じる。


 【三】手足のある蛇、ない蛇
 中国神話の龍神は半人半蛇、あるいは人面蛇神である場合が多いため、足まである龍というのは非常に少ない。(これはインド神話も同様である)が、ギリシア、北欧、ヨーロッパになると、トカゲ型の龍は一気に増える。(ファブニル、カドモスの龍もこの姿である)
 トカゲ型の龍というのは、紀元前以降、原始信仰の時代からずっと後に描かれるようになった姿である。しかし、このトカゲ型の龍が信仰の対象になる物語というのは、ほぼ見ることがない。それは、四肢のある龍というのは、すでに獣と同意義の存在だからである。
 手がある、ということは、先に述べたように“する”(行う)ことの幅は広くなる。しかしなにかを“行う”手足とは、同時にそれを“縛ること”や“従わせること”のできる部位でもあるのだ。※12多くの龍達を比べてみても、四肢のある龍が文明神、あるいは創造主としての主神になった神話・物語というのは、西洋、東洋共に見られない。
 獣というのは、従えることが出来れば、家畜にもなり得るのである。ギリシア神話に出てくるラドンなどは邪悪な存在ではないものの、神の配下として描かれており、また邪悪でなくとも、英雄に対する試練としての役割を担っている。手足のない蛇の形をした龍でさえ、後世では神の僕となって人を脅かすことがあるのだ。(アンドロメダ救出の物語がそれである)
 つまり四肢のある龍とは後世に生まれた人の手に及ぶ、支配できる生き物なのであり、神とはなり得ない存在である。これはキリスト教などが他の宗教や信仰を飲み込んでいった歴史の象徴といえるだろう。


 【四】龍と蛇の表わすもの(まとめ)
 ここまで西洋、東洋の龍を色々と並べてきたが、比べてみるとその性質は、ほぼ真逆といってもいい。――しかしその人が感じる蛇のイメージ、自然の象徴という点は同じだと考える。
 自然の力を東洋は神の業、西洋は神に反する暴力の象徴として受け取り、それを不死の象徴である蛇(もしくはトカゲ)という生き物を媒体とし、融和して、龍というものを描いたのである。
 この視点の違いが、東洋と西洋の龍の役割をわけたといえるが、しかし東洋人も自然が与えるものが恵みだけではないことを、洪水を引き起こす共工の存在で知っていたし、西洋もまた自然が暴力だけではないのをその体で世界を創造したティアマトで知っていた。
 自然は、蛇を恐れ始めるよりも、さらに昔から人間を包んでいたものである。そしてそれは今でも人の手では御することは出来ない。だからこそ、自然を表わす龍という生き物は現代でも忘れられず生き続けることができているのではないだろうか。
 そのように人間の底に根付いた自然の脅威と畏敬が獣化して表現されたものが、龍なのである。


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 ――と、以上までが私の駆け出し時の論文でした。…全部と無理はいえませんが、またもうちょっと細かく分析できたらなと思ってます…。
 二年前はまじめに動物神話に目を向けていたのに、

 なぜか現在、ロボット表現に移行してしまっています。

 どうしてこうなった。(いえ、この上なく幸せな状態なんですが)
 

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自己紹介:
・教養がない割に深読み家。
・道民なので甲殻類とじゃがいもが好き。
・道民なのに烏賊蛸貝が苦手。
・別サイトでは女性向サイト運営。
・同人歴は気付けば十年戦士。むしろ干支一回り。
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