初っ端から申し訳ございませんが、ちょっと湿っぽいお話です。
私、昔から今の今まで根っから捻くれもので、アニメにしてもドラマにしても小説にしても、わりと色々と反抗してしまう性質だったりするのですが。
でも現在、とてもシンクロする小説の人物がいます。それが今、ホシノ君(村上春樹著「海辺のカフカ」より)です。
「俺はさ、おじさん、こう思うんだよ。これからなにかちょっとしたことがあるたびに、ナカタさんならこういうときにどう云うだろう、ナカタさんならこういうときにどうするだろうって、俺はいちいち考えるんじゃねえかってさ。なんとなくそういう気がするんだね」
「つまりある意味ではナカタさんの一部は俺っちの中でこれからも生き続けるとってことだからね。まああんまりたいした入れ物じゃねえことはたしかだけどさ、でもなにもないよりゃいいだろう」
青木先生が亡くなってまだ半年も経ってませんが、亡くなってからの時間、ふとホシノ君の言葉のような感覚が訪れることがあります。
それはつまり今、私の中で、青木先生がナカタさんになっているんだろうなと思いました。
それがなんだか、とても綺麗な気持ちのように感じています。
本日は、そんな青木先生の49日です。というわけで、続きにちょっとmixiで書いたものを上げてみます。個人的なものですので、興味のない方は読まなくてもでんでん大丈夫です。(笑)
今年の初夏辺りから、母が昔お世話になった大学の先生の勉強会に、親子で通っていたのです。
先生は定年も向かえ、73というご高齢でしたが、とてもユーモアに溢れてアクティブな素敵な人で、発想や考え方も痛快で新鮮で、頭がよすぎて到底追いつけない方でしたが、たまにその沢山の言葉の中から、なんとか一つでも掴めるものがあると、それがすごく嬉しかった、そんな勉強会を半年、通い続けていました。もう本当に、触れれば視点や世界がぐるっと変わるようなパワーをお持ち人でした。
気付けば私も母と一緒に、そんな先生のファンになっていたくらいだったのですが。
その先生が今月の9日に亡くなってしまいまして。知らせを聞いたのは、11日でした。
先生が亡くなったのは札幌でも日本でもなく、タイの山でした。山の会に所属して、ロッククライミングを趣味としてる先生でしたが、30mの岩壁から落下してしまったとのことです。けどお歳だったからというわけではないんですよ。73になってもボケや老いとは無縁な人だったのは半年間私も見てきましたし、とても慎重な方だったと母も云っています。だから本当に、“事故”だったのです。なんでこんなに念を押すかって云いますと、先生は本当に「年齢」を原因に失敗するような方ではなかったからです。
それは先生自身が授業の中でも云っていて、「73の俺がこうやってロッククライミングしてるんだから、本当は年齢なんて関係ない。年齢を理由にして止めるから、衰えてしまうんだ」という言葉が、今も痛快かつ強烈に、鮮やかに心に残っています。少なくとも私はそれを“本当のこと”だと信じて疑っていません。
誰よりダメージを受けていたのは勿論母ですが、私もかなりショックでして。
亡くなった知らせを聞いた翌日、遅れて大号泣しました。悲しいのは勿論、非常に憤りを感じていました。
先生は吉本隆明の本を片手に、漫画や古典の裏にある「自己表出」「自己表現」を読んで考えて、文学と身体論でずっと学者してる方でした。上の言葉も、そんな身体論な先生だからこそ云える、先生の生き方だったと感じます。
もう授業の内容なんて本当難しくって、半年かけて通ってやっと私も入門できたかなっていうような勉強でした。でもほんの少しわかっただけでも、私には大きな進歩になりました。先生のその発想を下敷きにして照らし合わすと、本当になにもかもの物事が理解することができるようになりました。たった半年で、私の世界が開けて、変わりました。
先生は東大のご出身で、よく「俺は日本で三本の指に入るくらい頭がいい」とご自身で云っていて、それは誇張ではなく、先生は本当にそのような人だと、私だけじゃなく色んな人が思っていました。あんなに“本当に”物事を理解したり、しようとしてる人を私は他に会ったことがありませんでした。
きっとどんなに頑張っても、一生かかっても追いつけない人だと思ってました。間違いなく、本当の意味で“頭のよい人”でした。
先生は73になっても「あれを書かないとな」「これも考えてまとめて書かないとな」と云って、実際に書き続けていた、真実“表現”の人でした。(私は絵や漫画を描いたり、詩や小説、論文を書くなどの皆さんを“表現者”と思っています)そして間違いなく“表現”というものをわかっていらっしゃる方でもありました。73になっても書いても書いても書き足りない、考え足りない、もっと知らなければとしている先生は、“表現者”そのものだったと、今になって思います。そして自分の論の元、確固として生きてる先生はとても格好良かったです。
聞いた瞬間は突然のことで、本当ポカーンっていう具合で信じられなかったし、信じたくもなくて、二度寝して「夢だったら」と本気で思いました。今も先生がタイから「勝手に殺すな」とか云って笑って帰って来てくれないかと、真剣に思いました。
二日目になって、それが本当のことなんだと、ぼんやり現実を受け入れました。夢じゃない感覚っていうのが、ちゃんと体に残っていました。
それからはもう、熱が出るまで大泣きしましたわけなのですが。でもそれも先に書いたように、悲しみより憤りが勝っての涙でして。
涙が溢れた切っ掛けは、目の前にあるPC…いうより、その中のこと、というか。全く面識のない、通りすがりで見ただけの人の日記を見て、それが爆発しました。(超理不尽な怒りなんですけど)
それが直接どんな人であったかは無論云えませんが、私はその人が本当に頭にきたのです。
いい歳した、働き盛りの30代の男が、それも“表現者”という職をやっている人が、“感じること”を拒否するような発言と主張をしていたのです。
言葉も面識も一度だって交わしたこともない人の言葉なんて、普段ならあまり気にしないし、無論それになにか云うものでもないのですが、今回はどうしても過敏になってたと云いますか。それが10代や20代そこらの若い人が云っているなら可愛いもんです。けどいい歳した男が、先生の半分も生きてない、なにも考えず考えようともしない人が、達観した風に“表現者”であることが私は許せなかったのです。
なにもわかっていない人間がどうしてよりによって“表現者”として生きてて、なんで本当にわかってる先生が死ななきゃいけないんだと。本気でそれを泣きながら叫んでいました。
とにかくそれが悔しくて悔しくて、腹が立って腹が立って仕方なかったのです。
(あと2のつく某巨大掲示板でなにも知らずに暴言吐いてる人とかも、ちょっともう本気でどうしてくれようかと)
理不尽なことで腹を立てるのは、すごく嫌だし自己嫌悪ですし、あてのない悪口を云うのも死ぬほど嫌いですけど(そうしないように生きて行きたい、そうしてきたつもりなのですが)、あれはもう紛れもない憎悪と嫌悪でした。考えることや感じることを放棄しようとする人は、表現者じゃない、自己を止めようとしている人は表現者じゃない。先生という人がいた限り、私はそれが事実だと思っています。
表現者というには私は修行も足りない、まだその位置にすらいない人間ですが、“表現”をするなら、先生の云う“表現”でいられる“表現者”になりたいです。先生みたいな表現者に、一歩でも近づきたいのです。過激なことを云えば、なにもわかってないでわかったフリしてる馬鹿にだけはなりたくないのです。(それは私の身の振り方にかかっていますが)自分の表現を捨てるということは、自分であることも捨てるということです。
私がこれを云ったところで、ケツの青い奴だと一蹴されてしまうのがオチですが、それでも先生は間違っていないんだと、私はそれをいつか実証したいのです。
当然ですが、私は先生にはなれません。私が先生の論を下地に物事を考えても、それは“それを考えた私”でしかないのです。先生が半年間教えてくれていた「自己表現」と「自己表出」というのは、そういうものも含まれるのかなと今になって思っています。
私は先生以上に、表現というものを、的確に言葉に直すことのできる人は他に知りませんし、少なくとも北海道には他にいなかったと思います。それを思うと、今でさえ、どうして貴方が! という気持ちで一杯になるのです。
先生の研究は、わかることより、まだわからないことの方がずっと多かった。けどもっと先生の話を聞いて世界を見たかったです。まあこれは私だけの都合ですね、はい。
人間ね、70年も生きたらもういいだろって馬鹿なことを私も十代の時に思ったことがあるんですよ。でも「やりたいことがある人にとって、60歳くらいからが“まだやりたい”って時期で、全然足りないんだよ」と両親から教わったことがあります。きっと誰でもやりたいことがあったら60でも70でも80でも「足りない」って云うんだと思います。先生は、私達から見ても「まだ足りない」と語って生きているような方でした。
もうね、本当に最高に格好良い73歳だったんですよ。亡くなる直前でさえ「俺が死んでもなにもするな」とか云うような人で。(笑)
それからもう一つ。どうしても涙が止まらなかった理由がございまして。
先生の講義を受けているうちに、私は先生の話す「母界回帰説」や「自己表出」を聞いて、それをすごく表現している漫画があると思って、先生にその漫画のタイトルを云いました。
萩尾望都著「残酷な神が支配する」です。
先生は少女漫画は苦手でしたが、萩尾望都と大島弓子の漫画なら何本か読んだ、と仰っていました。「残酷な神が支配する」は、どうしたって先生の苦手な少女漫画であったと思いますが、私は耐えられなくて、ついそれを先生に推してしまいました。
後から母から聞いたのですが、先生は他人に勧められて本を選ぶ人ではないと云っていました。私はその失敗がどうしても申し訳なかったのですが、先生が論文を載せている、先生のHPのブログで、先生は私がそれを云った三日後に、少女漫画と少年愛について触れて下さっていました。気付いたのは、12/13。最後の講義から三週間も後のことでした。感激するのも遅れしまって、申し訳ない限りです。
…そんなことで、お恥ずかしいことに、涙が引くまで数日かかってしまっていたわけでございます。
けれど先生の勉強会に行くことが出来た半年間、それから妙な話ですが、先生が亡くなった今これからも、きっと私にとっては大切な時間なのだろうと、一週間ほど経ってようやくそう思い、ちょっと落ち着いてきました。先生の授業も、先生の死も、私の中では全部大事なことになりました。
今回の事故も、他の方々が云うように――不謹慎ですが――布団の中で力尽きるより「先生らしい」姿であったように思います。
青木正次先生。先生がいてくれたお陰で母は今日まで生きて来れて、私も二度とない世界の広がりを果たすことができました。
本当に本当に、ありがとうございました。
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・道民なので甲殻類とじゃがいもが好き。
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・同人歴は気付けば十年戦士。むしろ干支一回り。